聖徳太子の予言一覧
聖徳太子は、上述した内容以外にもどのような内容の予言をしたのでしょうか。それらの予言は次のようなものです。
聖徳太子の予言①:黒船来航・遷都東京
黒船来航と遷都東京を予言していた
生前には、次のように語っていたとされています。「私の死後に一人の聖皇が200年以内にこの場所に都を作るだろう。そしてその都は、今までにないほど壮麗な都となる。戦乱があり10回ほど見まわれてもそれらを越えて栄える。都となって1000年の間栄えるであろう。しかし1000年の時が満ちると黒龍である黒船が来て都は東に移される」という内容なのです。
平安京が794年に桓武天皇により定められ都は、京都に約1000年の間ありましたが、黒船の来航から明治維新が起こることで首都が東京へ移されたのです。
まさに予言どおりですね。
聖徳太子の予言②:第三次世界大戦
聖徳太子は第三次世界大戦を予言している?
また第三次世界大戦を予言しています。
未然記の中には、今後、第三次世界大戦に至る世界情勢についても記載されています。
2021年頃までに起きる第三次世界大戦勃発に関する予言では、国際情勢を次のような内容で説明しています。
まずアメリカ合衆国が一時的に中近東からの撤退し、代わりにロシアが中近東での覇権を強くします。さらにフランスにおける中近東の政策が失敗し中近東で戦争が起こりますが、60日ほどで終了するとされています。
それにより核兵器の使用の可能性が有り、戦線はヨーロッパ地域へと拡大する恐れがあります。そこにアメリカが参戦し本戦争は終結しますが、欧州は衰退していきます。
さらにアメリカが世界政府を樹立する宣言をし新国連のような組織が誕生します。
ロシアと中国は、反世界政府国家を掲げてアメリカの世界政府の元にある奴隷的な国家と対峙することとなります。さらにロシアとイスラエルとが中心となる反世界政府国家連合軍と最終戦が勃発するのです。
聖徳太子の予言③:人類が滅亡の危機
人類が2030年頃に滅亡の危機に瀕するという内容もあります。
それは、「 天、不義を憎んで怪物を下す 」と記されており天は人類が人の道に反する事をしたためにそれを憎み怪物を送り込むとされているのです。
最終的には「 九大を損じ、先ず日沈み、万乗おとろう 」となります。海や天、地、空、風や雲、雷、火、日などの宇宙を構成している全ての要素を九大とし、まず太陽の光がさえぎられる事を日沈みと記述しています。そして万物の全てが衰退することを「万乗おとろう」としているのです。
そのために「子孫は残害にはずかしめられ、世の衰え極まる 」と記述があり、人々は殺害されるとされています。
聖徳太子の予言④東京壊滅状態
東京がハンダの来襲によって壊滅状態に陥る?
日本についての聖徳太子の予言は、実に恐ろしいものです。
内容としては、「東の都にはクハンダが来る、そのため、その親と七人の子のように分かれるだろう」と記述されています。
聞き慣れないクハンダという言葉は仏教用語で、末世に現れる悪鬼のことです。東の都である首都東京は、そのクハンダの来襲によって壊滅状態に陥るという予言です。
解釈するのであれば首都機能を7人の子どもと親とに分けるということで、首都機能が東京だけでなく7カ所に分割か解体されると考えられます。または、大地震などによる地殻変動などで、東京を中心に日本の国土が分散するという恐ろしいものかも知れませんよね。
それではクハンダの正体とは、何と考えたらいいのでしょうか。核攻撃や隕石の落下かもしれません。可能性が最も高いのが、富士山の噴火の可能性です。その兆候として、箱根山の地震や河口湖の水位低下などがあり富士山の周辺部分では、不気味な前兆現象が相次いでいます。
そしてもし富士山が噴火するようなことになると火山灰が大量に東京に降り注ぐでしょう。東京にクハンダの真っ黒に降り注ぐ火山灰の様子が、聖徳太子には手に取るように見えていたのでしょうか。
首都機能を火山灰は、完全に狂わせるだけでなく健康被害を人体にもたらし深刻な事態となります。
当然のことですが、首都機能は麻痺し東京は壊滅しますから予言のように八箇所に分断されるということも想像できます。
この恐ろしい予言は、いつの時期をさしているのでしょうか。
この恐ろしい予言の運命の時は、お釈迦様の亡くなった日から数えて二千五百年後です。釈迦入滅の日というのが、諸説あり様々な学者の計算ではBC483年からBC500年でないかとされています。そこから考えると運命の時は、2000年です。でもこれは過ぎてしまいました。では破滅の時は、もう来ないのではと安堵しますね。東京が壊滅する日などは来ないことを祈りたいですが、現実に地震や天災などで日本には、危機的な状況が起きています。予言が当たらないことを祈るばかりです。
聖徳太子の予言についてまとめ
心の平安を諭している太子のこの言葉にこそ救いがある
聖徳太子は、悲劇的な自らが迎える運命を「私はまもなく死ぬであろう。そして子孫は一人も残らない」と予言していたのです。その通りに太子が病死か蘇我入鹿に暗殺された死後は、入鹿軍に聖徳太子の一族は囲まれ集団で自決をしました。それには、太子が遺言で「争ってはならぬ」と記し一族がそれを守ったからです。そしてその悲劇は、法隆寺の五重の塔の近くでした。そのことにより法隆寺は聖徳太子の怨霊を封じ込める場所だとも言われています。
また予言とされるものの中で622年から1621年までは、あまりにも当たっているので、事件が起こった後に太子の予言として書き残したのではないかとも言われています。
しかし私たちに起こる災いを予言した聖徳太子は、我々に救いの言葉も残しています。そのヒントとなるのは、「十七条の憲法」の第一条に記されているものです。
「和を以て貴しとなす」と言う言葉で何事にも仲良くして人と争わずに調和していくということが最も大切なことであるという教えです。人類は、歴史上も戦争を度々起こし殺りくを繰り返し、また物欲に走ってきました。そのようなものを憂い心の平安を諭している太子のこの言葉にこそ救いがあるのかも知れません。
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