人身御供とは?
人柱は聞いたことがあっても人身御供は聞いたことが無いという方も少なくないのではないでしょうか。まずは人身御供の読み方とその意味から解説していきます。
読み方
まず人身御供の読みですが、これは「ひとみごくう」と読みます。人身(じんしん)とかいて「ひとみ」、御供(おとも)と書いて「ごくう」と読むのです。
また人身供犠(じんしんくぎ/じんしんきょうぎ)と表現することもありますが、意味は同じです。
意味
人身御供(人身供犠)は生きた人間を生贄として神に捧げることを指します。またこれが転じて権力者に対し通常のやり方では聞き入れられないようなことをお願いするために人間を犠牲にすることという意味でも使われます。
人身御供に関しては人柱と同一なのか別物なのかという議論もあります。神話学者の高木敏雄氏によれば、人身御供は神を鎮めるための供物として生贄を捧げるのに対し、人柱は神に対して捧げられるものではないとし、これらは別物であると指摘しています。
人柱に関してはコチラの記事で詳しく解説してありますので是非参考にしてください。
人身御供が行われる地域について
人身御供は主にアミニズム文化、つまりありとあらゆるものに魂が宿っていると考える文化の根付いた地域において行われていました。
人身御供が行われていた地域では人間にとって人身は最も重要なものであり、そのためその人身を供物として神に捧げることは、神に対する人間からの最大級のおもてなしであると考えられていました。
【日本】龍神への生贄としての人身御供
ここからは実際に語り継がれている人身御供の伝説について解説していきます。
現在の箱根に位置する芦ノ湖にはその昔、九頭竜という竜が棲んでおり、毎年7月に人里に姿を現しては悪行の限りを尽くしました。田畑を荒らし、暴風雨を起こし、また近くの住民を殺傷するなどして暴れまわる九頭竜を鎮めるため、いつしか村には毎年7月には若い娘を生贄に捧げる風習が生まれました。
そのため毎年7月が近づくと娘を持つ親たちは気が気でなくなり、心労から病に倒れました。この事態を聞きつけた万巻上人は湖のほとりで三日三晩祈祷を続けました。
祈祷が終わると湖から九頭竜が現れ、自らの行いを悔い、許しを請いました。万巻上人が許しを請う九頭竜を鉄の鎖で逆さ吊りにすると、不思議なことに九頭竜は九頭の竜神に変身したのです。
この奇跡を目の当たりにした万巻上人は九頭竜明神をここに祀り、竜神の心を鎮めました。それ以来人身御供は無くなり、代わりに大櫃に入れた赤飯を湖に沈めるようになりました。
このようにかつて生贄を捧げていたものが変化し、代わりに食べ物などを捧げるようになったという例は多くみられます。
龍神にまつわる伝説は日本各地にあります。龍神伝説に関してもっと知りたいという方にはこちらの記事もおすすめします。
【日本】アイヌの人身御供伝説
アイヌに伝わる有名な伝説の一つに矢越岬での人身御供伝説があります。
1500年頃の蝦夷地(現北海道)沿岸では海難事故が相次ぎ、本州への玄関口である松前の領主・相原季胤(あいはらすえたね)は頭を悩ませていました。
季胤はある時占い師から「矢越岬、千軒岳にて人身を供し、神の怒りを解くべし」とのお告げを受けましたが、それを信じようとはしませんでした。しかし家臣である村上政儀はその反対を押し切るようにして人身御供を断行しました。
ずる賢い性格だった政儀は約20人のアイヌの娘を甘言や強奪により集め、真相を告げぬまま舟に乗せ、矢越岬へと向かいました。そして矢越岬にさしかかったところで娘たちを海へ沈めたのです。
これを知ったアイヌの人々は大いに怒り、季胤のいる大館を襲撃しました。逃げきれないと悟った季胤は入水して命を絶ち、一族は滅亡することとなりました。
アイヌの人身御供の伝説には悲劇的なものが際立って多く見受けられるという特徴があります。
他の地域の伝承では最終的に勇者や僧侶が村を救い、人身御供から村人を解放するという展開が多い一方、アイヌのそれには人身御供をしたにも拘わらず神の怒りが収まらず村人全員が死んでしまうものや、神の怒りを鎮めることは出来たものの生贄に捧げられた女性の恋人がそれを知り自殺してしまうものなど後味の悪いものが多く残っています。
海外での人身御供
あらゆるものに魂が宿っているという思想や神への最大級の奉仕として生贄を捧げる文化は日本に限ったことではありません。人身御供は日本に限らず海外でも行われていました。
ここでは海外で行われていた人身御供の例を紹介します。
中国
中国では殷代以前の時代において盛んに人身御供が行われており、魏の時代に禁止されるまで続きました。
生贄として捧げられる人間の中には捕えられた異民族のほか、軍人や高い身分の人間まで含まれていたと考えられており、実際に殷代の遺跡からは850人もの武装した軍人の人骨が馬車ごと出土しています。出土した人骨の中には身分の高い人間のものと推測されるものも含まれていたのです。
また人身御供の際には神の意志を確認していたと考えられており、その証拠として捕らえた異民族の処遇を占っていたと思しき痕跡も発掘されています。
アステカ・インカ
アステカ文明には太陽がやがて消滅するという終末信仰が根付いていたため、太陽の消滅を先延ばしするため人間の心臓を神への供物として捧げる儀式が行われていました。
アステカで行われていた人身御供の儀式は石壇の上に人間を押さえつけ、生きたまま心臓をえぐり取るという過激なものでした。またアステカでは太陽の不滅を願う人身御供の儀式は頻繁に行われており、加えて雨ごいなど他の理由でも人身御供がされていたので、慢性的に多くの生贄が必要とされていました。そのため生贄を得るために戦争をしたことさえあったのです。
またインカ帝国でもアステカ同様太陽信仰基づく人身御供がありましたが、そのやり方はかなり異なります。
インカ帝国では各村々から生贄を募集し、選ばれた人間は神への供物として一定の年齢になるまで大切に保護されました。また保護されている間に干ばつなどの問題が起きなければ一般社会に戻ることもありました。
しかし生贄として神に捧げられることとなった場合、13歳程度という若さでこの世を去ることになります。生贄になる少年少女らは死の直前にコカインの原料になるコカの実やチチャという酒を大量に与えられ、意識朦朧とした状態で生き埋めにされるのです。
現に古代インカ帝国で生贄に捧げられた少女のミイラが発見されていますが、その表情がとても安らかであることからも、穏やかに眠りについた後に死を迎えたのだと考えられます。
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