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茨木童子とは?平安京を荒らした鬼の一人について解説

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茨木童子とは?平安時代に京都を荒らした鬼

茨木童子(いばらきどうじ)とは、現在の京都府丹後半島に位置する大江山(おおえやま)を住処にし、平安時代の京都を荒らし回ったとされる「鬼」の一人です。

鬼の頭領である酒吞童子(しゅてんどうじ)の家来でもあり、酒吞童子や仲間たちと一緒に、京都に住む貴族の子女を誘拐するなど乱暴狼藉を働いていました。

その後、帝の命を受けた源頼光と4人の武将と家臣たちによる「だまし討ち」によって滅ぼされたとされています。

しかし、茨木童子だけは難を逃れ、生き延びたとされていますが、その後の消息の記録は残っていません。

茨木童子と酒呑童子との関係

酒吞童子(しゅてんどうじ)とは、茨木童子と同様に現在も語り継がれている有名な鬼で、酒吞童子の家来の中で別格に扱われていたのが茨木童子でした。

二人の出会いには諸説あり、父親に捨てられた茨木童子を酒吞童子が拾い養ったとされる説や、出身地が同じだったとされる説など様々です。

中には、男の鬼だと思われていた茨木童子が、実は女の鬼であり、酒吞童子の恋人であったという説もあります。

兎にも角にも二人は出会い意気投合し、悪行を重ねながら共に都を目指すようになります。

茨木童子と渡辺綱

茨木童子は、京都の羅生門で源頼光の4人の武将の一人、渡辺綱(わたなべのつな)に腕を切り落とされ、後に奪い返した鬼としても知られており、茨木童子を語る上で、一番有名な話になります。

ここでは、茨木童子と渡辺綱の戦いの話についてご紹介します。

茨木童子と渡辺綱の戦い

源頼光と4人の武将たちが集まった酒の宴の席で、「近頃、羅生門に鬼が出る」という噂が持ち上がりました。

酒が回っていたこともあり、話が盛り上がると、全員で度胸試しに羅生門へ鬼退治に出かけ、順々に門に入ります。

4人の武将の一人、渡辺綱が門に入ると、噂通り、目の前に鬼が現れます。渡辺綱は鬼と格闘を繰り広げ、その鬼の腕を斬り落とし、退治しました。

渡辺綱はそのまま帰ろうとしましたが、「鬼の生き残りがいるかも知れない」と思い、もう一度、羅生門に引き返すと、そこで美しい女性と遭遇します。

しかし、それは人間の女性ではなく、鬼の茨木童子だということが分かり、激しい格闘となります。

そしてまたしても、渡辺綱が鬼の茨木童子の腕を斬り落としたところで決着が付きます。

腕を斬り落とされた茨木童子はそのまま逃げ出しましたが、後日、別の姿に化けて渡辺綱の屋敷まで腕を取り返しに来るという話です。

戦う場所は「羅生門」や「一条戻橋」など変わっていたり、茨木童子が変化する美しい女性の描写が異なってはいますが、「茨木童子が渡辺綱に片腕を切り落とされ、取り返しに行く」という点は、どの文献にも共通して、語り継がれています。

茨木童子と安倍晴明

安倍晴明(あべのせいめい)とは平安時代に活躍した陰陽師で、今も尚様々な逸話が語り継がれています。

母親が妖狐であったとか、一条戻橋の下に鬼(式神)を飼っていたなど不思議な話が数多く残る人物です。

そんな、有名な陰陽師の安倍晴明と鬼の茨木童子の関わった話が残っていますので、ご紹介します。

安倍晴明の助言

京都にある一条戻橋の上を渡辺綱が通りかかったところ、美女が道に困っていたそうです。

そこで、渡辺綱がその美女を自分の馬に乗せてやったところ、美女は突然、姿を鬼に変え、渡辺綱の髪の毛を引っ掴み、そのまま愛宕山(あたごやま:現在の京都市右京区のある山)へ連れ去ろうとします。

しかし渡辺綱は冷静に、名刀「髭切」で鬼と化した美女の腕を斬って難を逃れたとされています。

一条戻橋と言えば、安倍晴明が橋の下に鬼を飼っていた、という話が有名です。

その話を知っていたかは定かではありませんが、渡辺綱は戦いの末切り落とした鬼の腕を安倍晴明に見せ、相談をしたそうです。

すると、「鬼は腕を取り返しに必ず戻るので、7日間家に閉じこもり、その間、家の中に誰も入れないようにして、物忌みをして下さい」と晴明に言われ、渡辺綱はその通りにしたそうです。

安倍晴明の言った通り、腕を取り戻しに茨木童子が現れ、あらゆる手を使って中に入ろうとしますが、安倍晴明の貼っていった護符の力により、屋敷に侵入する事が出来ません。

7日目の晩、渡辺綱が最後の物忌みを続けていると、摂津の国(現在の大阪府の一部、兵庫県の一部に跨って存在した律令国)から渡辺綱の伯母が屋敷にやってきました。

しかし渡辺綱は、物忌みを続けている事情を説明して訪ねてきた伯母を屋敷に入れなかったところ、気を悪くした伯母が「幼い頃大切に育てた報いがこんな仕打ちなのか」と嘆き悲しんだので、仕方なく言いつけを破って屋敷に入れてしまいました。

そして伯母が、鬼の腕を見せてほしいと言ってきたので、渡辺綱が鬼の腕を渡すと、突然伯母は鬼の姿に変わり、斬り落とされた腕を持つと飛び上がり、破風板(はふいた:屋根の端で交差する板)を突き破って空に消えます。

つまり、茨木童子が叔母の姿に化けていたという事です。

安倍晴明と直接対峙した訳ではありませんが、安倍晴明の助言と護符によって守られた渡辺綱から、茨木童子は戦わずして腕を取り戻せない状況に追いやられていたのです。

茨木童子の出生

茨木童子の出生にも諸説あり、中でも有名なのは「越後説」と「摂津説」です。

どちらが本当なのか今となっては分かりませんが、どちらの説も何故か、血を口にした時に鬼になってしまうという共通点があります。

ここではそれぞれの説についてご紹介していきます。

茨木童子の出生「越後説」

茨木童子は酒呑童子と同じく、越後の出身だという説があります。

美少年として知られ、多くの女性に言い寄られていた茨木童子の将来を案じた母親は、弥彦神社に茨木童子を引き渡します。

弥彦神社から実家に帰省した茨木童子は、母が行李(こうり:柳や竹で編んだ衣類を収納する入れ物)の中に隠した茨木童子宛の「血塗の恋文」を見つけます。

その血を指で一舐めすると、彼はたちどころに鬼となってしまいました。

鬼へと変貌してしまった茨木童子は、破風板を壊し、そのまま逃げていきます。

同じ頃、酒吞童子もまた女性の執念によって、鬼へと変貌を遂げていました。

恋文への返事がないことに悲観して自殺した娘の話を聞き、読まずにいた恋文の入ったつづらを開けると、異様な煙が立ち、それを吸った酒吞童子は失神します。

そして、意識を取り戻すと鬼へと変り果てており、世話になっていた寺から逃げ出します。

その後、境遇のよく似た茨木童子と酒吞童子は出会ってすぐ意気投合し、周囲の村々を襲っていきます。

越後には茨木童子と酒呑童子を祀った祠があり、「茨木」姓が多く、「茨木」姓の家では節分に豆をまかない習慣が今も残っています。

またこの他に、地域特有の言い伝えで、「屋根に破風を作ると不良が出る」ため破風を作らない習慣もあります。

茨木童子の出生「摂津説」

摂津の出身である説もあります。

茨木童子は水尾村(現在の大阪府茨木市)で、母親の胎内に16ヶ月留まり、その後難産で生まれます。

生まれたばかりの茨木童子にはすでに歯が生え揃っており、すぐに立ち歩きをはじめ、母親の顔を鋭い目つきで眺め笑ったそうです。

その異様な赤子にショック受けた母親は亡くなり、茨木童子を父親は恐れ、隣の茨木村の九頭龍の森近くにある髪結床屋の前に捨ててしまいます。

捨てられた茨木童子を見つけた髪結床屋の夫妻は、子供がいなかったこともあり、自分達の子供として育てます。

すくすくと成長し、髪結床屋の仕事を手伝っていた茨木童子は、ある日、かみそりで客の顔をうっかり傷つけてしまいます。

慌てて指で客の血をぬぐい、血の付いたその指を綺麗にしようと舐めると、その味の虜になってしまい、それからは、うっかりした振りをしてわざと客の顔を傷つけては血を啜るようになってしまいました。

見かねた髪結床屋夫妻に怒られた茨木童子は、落ち込んで近くの小川の橋にもたれてうつむいていると、水面に映った恐ろしい鬼の形相が自分の顔だと気付き、髪結床屋には帰らず北の丹波の山に逃げ、そこで同じような風貌をした酒吞童子と出会います。

また、茨木童子がもたれていた橋は「茨木童子貌見橋」と呼ばれていましたが、現存はしておらず、橋の跡地に碑が立っています。

茨木童子についてまとめ

このように地域によっても茨木童子の伝説は数多くありますが、それぞれ微妙に話が異なっており、話もファンタジー色が強いことから、茨木童子が現存していたか定かではありません。

しかし、似通った話がいくつも残っている事もまた事実です。

また茨木童子の出生地の説がある越後や摂津では、茨木童子を祀った祠があったり、橋の跡地に碑が立っていたりなど、本当にそこに存在していた事を匂わせるようなものも残っています。

茨木童子に関する伝説は、多くの書物や歌舞伎や能などの人気の演目としても多数語り継がれていますので、興味のある方は是非探してみてください。

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