禅問答(公案)とは
禅問答(ぜんもんどう)とは、禅宗の僧が悟りを開くために行う問答のことです。
禅問答には公案と呼ばれる禅の祖師たちによる具体的な行為や言動を例に、禅の精神を究明するための問題があります。
しかしその中身は、かなり非論理的であり、抽象的なものが多く、「意味がわからない」という意味で、「あなたの言っていることは禅問答のようだ」というような使われ方をするのが一般的となっています。
禅問答の誕生
禅宗において、禅問答が成立したのは11世紀頃だと考えられています。
きっかけは、禅問答をまとめた「景徳伝灯録(けいとくでんとうろく)」という書物が編纂されたことです。
景徳伝灯録とは、1701名の禅僧の逸話や説法、問答などが記録された書物であり、今日までに伝わる禅僧のエピソードや禅語にも出典されています。
禅宗は他の宗派とは違い、経典などを持ちませんでした。
書物などに教えを残していないからこそ、自分達のアイデンティを弟子に教えることが出来ず、それが禅問答に繋がったとされています。
そこで禅宗では、経典がない代わりに「伝灯(でんとう)」を重視するようになります。
伝灯によって仏教の成り立ちを示すことで、禅宗の教えが正しいと証明するねらいがありました。
ある意味系譜ともいえる伝灯は、系譜だけに留まらず、僧侶たちの思想や言動までもが記されるようになります。
口伝とはまた違う独特の教えが、禅問答という形を取って弟子達にも広まっていったのには、こうした背景があります。
禅問答がまとめられた公案集について
禅問答がまとめられた公案集は、中国の北宋の禅僧、雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)が編纂した雪竇頌古(せっちょうじゅこ)と呼ばれる書物が大きく関係しています。
雪竇は、景徳伝灯録を元に、禅僧が残した問答などを100話集め、雪竇頌古として一つの書物にします。
これが公案集の始まりです。
その後雪竇頌古は、臨済宗の圜悟克勤(えんごこくごん)によって加筆され、碧巌録(へきがんろく)が編纂され、有名な公案集として、現在にまで残っています。
禅問答(公案)が意味することとは
禅問答は理解が難しい問答ですが、具体的にはどのように解釈すればいいのでしょうか。
実際に、禅問答の解釈には正解はありません。自分がどう感じたかが重要になります。
それを踏まえた上でここでは、実際の禅問答公案を用いて、禅問答の解釈の仕方についてご紹介します。
禅問答公案:その1
弟子と道吾禅師と呼ばれる和尚のやり取りです。
「私はお前がここにやって来た時から、教えている。」
「それは一体どんな教えでしょうか?」
「お前が挨拶をすれば、私は応えている。お前が粥を持ってきたら、合掌して受け取っている。これ以上何を教えるのだ?」
「考えるのではなく、直に感じよ。頭で解釈はするな。」
この公案は、「当たり前のことを当たり前と思ってはいけない」と解釈できます。
普段から当たり前だと思っていることに感謝する人は少ないと思います。しかし、人はその当たり前を失った時に初めて気づきます。
言ってみれば、この禅問答は「いつも感謝の心を忘れるな」という解釈にもとれます。
禅問答公案:その2
もう1つ別の禅問答の公案をご紹介します。
「風の本質は変わらず、どこにでも風は行き渡るというのに、なぜあなたは扇を使うのですか?」
「お前は風の本質が変わらないことを知っているが、風が行き渡らないことはないという言葉の本当の意味がわからないのか?」
「それはどういうことですか?」
「……。」
(そう問いかけても、道吾禅師は扇を扱うばかり)
この公案は、「物事の本質は変わるものではない。ただ、変わらないからと言って、何もしなければ本質を実感することは出来ないものだ」と解釈することができます。
普段当たり前にあると思っている太陽の光や雨の恵みなど、知るためには畑作業などをして、その有難味を実感することで、初めて本質が理解できます。
つまり、「当たり前と思うな」という解釈ができます。
まとめ
禅問答は一見すると意味のわからないことも多いですが、深く考えていくと、それらの問答には必ず意味があります。
「考えるよりも感じること」が禅問答の意味するところですが、これは現代においても通用する考え方です。
だからと言って、無鉄砲に動けということではなく、純粋に本質を見抜くことが大事です。公案はその道筋を示してくれているわけです。
また禅問答は、実際に体験する方が意味があります。
気になった方は碧巌録に挑戦してみてはいかがでしょうか。きっと自分を見つめ直すいい機会になるはずです。