その日、彼女は眠れずにいた。
心の奥でざわめく不安。
誰にも言えない痛みや、先の見えない未来への怖さが、夜の静けさを破って彼女の胸に広がっていた。
街の明かりがすっかり消えた深夜。
彼女は、ふとベランダに出て、空を見上げた。
風がふわり、と吹いた。
その瞬間、彼女の髪がやさしく揺れ、頬に触れたその風はまるで誰かの手のように感じられた。
「……あの風、昔も感じたことがある」
そう思い出したのは、小さな頃に母と訪れた神社の森の中。
参道の石畳に足を踏み出したとき、鳥居をくぐった瞬間、木々の隙間から吹いた風が、彼女の胸の奥まで入り込み、不思議と安心したことを思い出したのだ。
風の中に宿るもの——
それは、目に見えないけれど、確かに心に届く「祈り」だったのかもしれない。
そのとき、部屋のスピーカーから、静かに歌が流れ始めた。
「風がふわり 胸をなでる
心の中の波が静まる……」
それは、優しい歌声だった。
どこか懐かしく、でも新しい。
まるで、彼女の心の痛みをそっとなでるような、やさしい声。
言葉は、まるで風そのものだった。
誰にも言えなかった「大丈夫じゃない気持ち」に、
「だいじょうぶ」と返してくれる歌だった。
彼女はベランダの手すりに手を置き、目を閉じた。
耳を澄ますと、風の音と、音楽と、自分の呼吸が、ひとつにつながっていく。
まるで、自分の不安が風に溶けて、空に還っていくようだった。
「……ありがとう」
その一言が、自然にこぼれた。
眠る前に誰かに「大丈夫」と言ってもらえること。
それがこんなにも心を癒すとは、知らなかった。
歌の終わりとともに、風がまた静かに吹いた。
部屋に戻った彼女は、ベッドに横たわり、目を閉じる。
いつのまにか、不安はすこしだけ遠くに感じられていた。
その夜、彼女は久しぶりに深い眠りに落ちた。
そして夢の中で、青く澄んだ空の下、風とともに歩く自分を見た。
もう、不安ではなく、「希望」という名の風が、彼女の背中を押してくれていた。


