高天原の場所はどこ?様々な説を紹介
戦前までは高天原は天上界にあり、地上にはない神の領域の存在であるという天上説が主流でした。これは天皇が天照大神の子孫であり現人神であるという皇国史観に基づくものです。戦後、この天上説が天皇制と帝国主義を支える思想体系による作為的なもので、神話は史実的要素を含まないとされる考え方が主流となりました。
しかし神話は史実に基づく事実を含んでおり、大和朝廷発祥の地が高天原だと唱える地上説も古くから存在していました。古事記や日本書記が編纂された奈良時代には「天」という言葉を「都」を指す言葉として使っていたという事例もあります。
地上説には、中国の宋の文献に神代の都が九州にあったとの記載による「九州説」や室町時代に主流であった「大和説」、江戸時代初頭に新井白石によって提唱された「常陸国説」といった、国内説と朝鮮半島やイスラエルにあったとする海外説があります。
1.奈良県金剛山地説
奈良県御在所市にある金剛山は高天原山とも呼ばれており、そのふもとの台地は高天原の伝承地です。この地は古くは葛城と呼ばれ、大和政権以前に葛城王朝があったという説もあります。
ここにある高天彦神社は主祭神として高皇産霊神(たかみむすひのかみ)を祀っていますが、この神は天地開闢で最初に現れた造化三神の一柱です。江戸時代初め頃までは、朝廷ではこの地が高天原であるとされていました。
2.宮崎県高千穂町説
天孫降臨神話において、瓊々杵尊は日向の高千穂峰に降り立ったとされています。その高千穂町には高天原という地名が存在し、「岩戸隠れ神話」に出てくる天岩戸や天安河原があります。また、高千穂神社では高千穂の夜神楽という岩戸隠れの時の天細女命を模した神楽が古くから奉納されています。
3.熊本県山都町説
熊本県山都町にある幣立神宮(へいたてじんぐう)の社伝には、この地が高天原であり瓊々杵尊の天孫降臨の場所だとされています。また、幣立神宮の裏の大きなくぼ地の前に鳥居が立っていますが、このくぼ地は天照大神が天岩戸から出てきた時にできたものだと伝わっています。
4.茨城県多賀郡説
江戸時代の国学者新井白石によって提唱された説で、古代の漢字をひらがな読みにして古事記を解釈することで高天原の位置を常陸国多賀郡(現在の茨城県多賀郡)としたものです。
また常陸国風土記に関東平野に高天原があったと推測される記載があり、茨城県鹿嶋市に高天原という地名があることから鹿島神宮を中心としたこの地域に高天原があったとする説も存在しています。
5.朝鮮半島説
縄文時代中期におこった鹿児島沖の鬼界カルデラの大噴火による火山灰の地層の下から縄文文化の大集落跡が見つかり、当時九州南部に高度な技術を持つ海洋民族が暮らしていたということが判明しました。
約1000年の間は九州南部には人が生息した痕跡が見られないこと、6000年前頃から突如朝鮮半島に九州北部の縄文式土器に似た土器が使われていたという痕跡が現れたことから、カルデラ大噴火により九州南部から北部に逃れた縄文人達が、約6000年前の縄文海進と呼ばれる海水面の上昇により九州の地に住むことができなくなり朝鮮半島に逃れたと考えられます。
逃れた縄文人の子孫が再度九州の地に戻ったことが天孫降臨神話であり、高天原は朝鮮半島にあったとされる説が朝鮮半島説です。
6.古代イスラエル王国説
日本人の祖先は古代イスラエルの失われた10支族の一つであるという「日ユ同祖論」を由来とする説です。この日ユ同祖論は神道と古代ユダヤ教の類似点や大和言葉と古代ヘブライ語の類似点が多くあるという点などから、日本人は古代イスラエルを脱出したユダヤ人の子孫であるとしています。このことから、高天原は古代イスラエル王国を指すというものです。
高天原とは?まとめ
以上、高天原についてのさまざまな説をご紹介いたしました。高天原に住まうとされる日本神話の神々は私たちとは縁遠いようにも感じますが、四季折々や人生の節目における神事など、実はとても私たちの生活に根付いた身近な存在です。高天原に関するいろいろな説を知ることで、日本人のルーツにも関わるかもしれない高天原について思いをはせてみるのも良いかもしれません。
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