夜は、いつも静かに始まる。
街の灯りがひとつずつ消え、窓の向こうから聞こえていた音も遠のくころ、彼は椅子に腰を下ろし、目を閉じた。
今日も一日、何かを失った気がしていた。
理由は分からない。ただ、胸の奥が重く、言葉にならない不安が残っている。誰かに話すほどのことではないし、話したところで解決するとも思えなかった。
彼は、深く息を吸った。
そのとき、微かな音がした。
木琴のような、鈴のような、幼いころにどこかで聞いた気がする音色だった。耳で聞くというより、心の奥でそっと鳴っているようだった。
「こわがらないで」
声は、頭の中ではなく、胸のあたりから聞こえた。
驚くよりも先に、不思議と涙がこぼれた。
見えない腕が、そっと肩に触れた気がした。
触れているのに重さはなく、ただ温かい。
「わたしは、ここにいる」
彼は、何も答えなかった。
答える必要がないことを、身体が先に理解していた。
これまで、彼は強くあろうとしてきた。
誰にも迷惑をかけず、弱音を吐かず、正しく生きようとしてきた。けれど、いつの間にか、その「正しさ」が彼を疲れさせていた。
「あなたは、守られている」
その言葉は、慰めでも約束でもなかった。
ただ、事実を静かに伝えているだけの響きだった。
彼は、もう一度息を吸った。
胸の奥で、小さな灯が揺れているのを感じた。消えかけていたと思っていた命の灯火は、まだそこにあった。
「明日が見えなくても、かまわない」
世界は相変わらず不確かで、答えはどこにもなかった。
それでも、今この瞬間、彼は一人ではなかった。
見えない存在は、何も求めなかった。
信じることも、感謝することも、祈ることさえ強いられなかった。
ただ、そばに在る。
やがて音は、静かに溶けていった。
部屋には再び夜の静けさが戻ったが、彼の中には確かな温もりが残っていた。
彼は、ゆっくりと目を開けた。
世界は、何も変わっていない。
けれど、心の奥で誰かが囁いている。
「大丈夫。愛してる」
その言葉は、今日を生きるために十分だった。



