森は、静まり返っていた。
朝とも夜ともつかぬ薄明の中、石畳の道がまっすぐに伸び、その先に鳥居が立っている。
彼は、その前で立ち止まっていた。
ここまで来るのに、理由はなかった。
誰かに勧められたわけでも、願いを叶えたかったわけでもない。
ただ、胸の奥に積もっていた重たいものを、これ以上抱えきれなくなっただけだった。
鳥居の向こうは、淡い光に満ちている。
清らかで、厳かで、けれど拒む気配はなかった。
彼は、一歩、足を踏み出した。
足音が、湿った空気に溶ける。
歩くたびに、過去の記憶が胸をよぎった。
言葉にしなかった後悔。
知らぬうちに誰かを傷つけたこと。
守れなかった約束。
忘れたふりをしてきた感情。
それらは「罪」なのか、「穢れ」なのか。
彼自身にも、もう分からなかった。
やがて、川の音が聞こえてきた。
速く、澄んだ流れが、森の奥で静かにうねっている。
「流してもよい」
どこからともなく、そう告げられた気がした。
彼は、胸の奥に溜まっていた思いを、言葉にせず、ただ川へと委ねた。
後悔も、怒りも、恐れも、名前を与えられない感情も。
それらは、水に触れた瞬間、形を失い、流れの中へと消えていった。
川は、何も問い返さなかった。
裁くことも、評価することもなく、ただ受け取り、遠くへ運んでいく。
彼は、初めて気づいた。
祓いとは、罰ではない。
忘却でもない。
歩き直すために、手放すことなのだと。
再び鳥居の前に立ったとき、空気はわずかに変わっていた。
森は同じ姿のままなのに、世界が少し広く感じられる。
彼は深く息を吸い、静かに頭を下げた。
何かを誓う必要はなかった。
清くあろうと、無理に決める必要もなかった。
ただ、これからを生きる。
その意志だけが、胸の奥に残っていた。
彼は鳥居をくぐり、光の中へ歩いていった。
背後で、川の音が、祝詞のように静かに響いていた。



