朝の空気は、土の匂いを含んでいた。
彼女は、まだ人影のまばらな道を歩き、静かに宮へと向かっていた。
鳥の声が、遠くでひとつ、またひとつと重なる。
その音に合わせるように、風が稲の葉を撫で、さやさやと小さな響きを生んでいた。
宮の前に立つと、不思議と胸の奥が温かくなった。
願い事を持ってきたわけではない。
叶えてほしい未来があるわけでもない。
ただ、ここに来て、手を合わせたかった。
彼女は、これまで多くのものを受け取ってきた。
食べるもの、守られる場所、名も知らぬ誰かの労苦。
それらは当たり前のように日々を支え、意識されることなく消費されてきた。
けれど、この宮に立つと、ひとつひとつが確かな重みをもって胸に戻ってくる。
土に触れた手。
雨を待つ祈り。
風の向きを読む眼差し。
それらが積み重なり、今日の「生きている」が成り立っている。
「豊受の神は、与える神ではない」
彼女は、ふとそんな言葉を思い出した。
育み、支え、巡らせる神。
命が命を養う、その静かな流れを守る存在。
供えられた御饌の香りが、かすかに漂う。
米、麦、粟、稗、黍――
それぞれが、長い時間と人の手を経て、ここに在る。
彼女は、深く頭を下げた。
感謝は、言葉にしなくてもよかった。
声に出さずとも、身体がすでに知っている。
「いただきます」と言う前の、あの一瞬。
命を受け取る覚悟のような、静かな間。
それが、ここでは祈りになる。
外に出ると、陽は高くなり、稲穂はやわらかく揺れていた。
黄金色にはまだ早いが、確かに実りへと向かっている。
彼女は、歩きながら思った。
人生もまた、同じなのかもしれないと。
すぐに成果が見えなくても、
報われている実感がなくても、
それでも日々は、確かに積み重なっている。
誰かのために。
自分のために。
まだ見ぬ次の命のために。
彼女は、振り返らずに歩き出した。
背中に、豊かな静けさを抱きながら。



