山は、何も語らない。
少なくとも、人の言葉では。
彼は、久しぶりに山道を歩いていた。
目的があったわけではない。
ただ、足が自然とこちらへ向いただけだった。
街で過ごす日々は、便利で、効率的で、そして息が詰まるほどに速かった。
判断し、選び、応え続けるうちに、自分が何を背負っているのかさえ、分からなくなっていた。
木々の間を抜ける風が、肌に触れる。
湿った土の匂いが、深く息を吸うことを思い出させた。
山は、ただそこに在った。
昔から変わらぬ姿で、人の都合など意に介さず、静かに立っている。
「守られているのは、どちらなのだろう」
ふと、そんな考えが浮かんだ。
人が山を守っているのか。
それとも、山が人を生かしてきたのか。
足を止めると、背後で小さな音がした。
枝が折れる音でも、獣の気配でもない。
もっと曖昧で、けれど確かな“気配”。
振り返ると、そこには何もいなかった。
けれど、見えない存在が、山と同じ呼吸でそこに在ることだけは、なぜか分かった。
「急ぐな」
言葉ではない。
そう告げられた、と感じただけだった。
彼は、その場に腰を下ろした。
何かを祈るつもりはなかったし、願いを捧げる準備もしていなかった。
ただ、動くのをやめた。
すると、不思議なことに、心の中で張り詰めていたものが、少しずつほどけていった。
成功も失敗も、正しさも誤りも、ここでは同じ重さで地に還っていく。
山は、選ばない。
裁かない。
ただ、すべてを受け止め、抱え込み、静かに循環させている。
それが、山の役目なのだと、彼は理解した。
大山津見神――
山そのものとして在り、
人の営みを遠くから見守り、
倒れそうなときには、無言で支え続ける存在。
彼は、深く息を吸い、吐いた。
胸の奥に溜まっていた重たいものが、土に染み込んでいくようだった。
立ち上がると、視界が少しだけ広くなっている。
山は何も約束しない。
けれど、「戻る場所がある」ことだけは、確かに示してくれる。
彼は、もう一度だけ山を見上げ、静かに頭を下げた。
守られていたのは、
ずっと前から、自分のほうだった。



