朝露が、稲の葉先に静かに宿っていた。
光を受けてきらめくその一粒一粒は、まるで大地が夜のあいだに語りかけていた言葉の名残のようだった。
彼女は、畦道に立ち、風に揺れる稲穂を眺めていた。
黄金にはまだ早い。
けれど、確かにそこには、満ちようとする命の重みがあった。
土に手を入れると、ひんやりとした感触が掌に伝わる。
雨が染み込み、微生物が息づき、名もなき営みが幾重にも重なって、この一株が育ってきた。
人の力だけではない。
自然の気まぐれだけでもない。
「ここに、神は宿る」
誰かに教わった言葉ではなかった。
そう“感じた”だけだった。
風が吹き、稲穂が一斉に揺れる。
その音にまじって、かすかな足音が聞こえた気がした。
振り返っても、そこには誰もいない。
けれど、白い気配が、田の向こうを横切ったような気がした。
狐――
古くから、稲の神の使いとされてきた存在。
それは姿を見せるためではなく、
命が巡っていることを知らせるための気配だった。
彼女は、胸の前でそっと手を合わせた。
願い事は浮かばなかった。
代わりに、これまで受け取ってきた数えきれない「いただきます」という言葉が、心に満ちていく。
食べるということは、命を迎え入れること。
そして、命を迎え入れ続けられることは、決して当然ではない。
しとしとと、雨が降りはじめる。
粒はやさしく、土を叩くのではなく、包み込むように染み込んでいった。
「芽吹け」
どこからともなく、そう呼ばれた気がした。
それは命令ではなく、励ましでもなく、
命そのものが次の命へ手渡される瞬間の、静かな合図だった。
ウカノミタマ――
稲に宿り、食に宿り、
人の暮らしの奥深くで、微笑む神。
与えすぎることも、奪うこともなく、
ただ、巡りが途切れぬよう見守る存在。
稲穂が揺れるたび、
そこに集う千の命が、声なき歌を奏でているようだった。
彼女は空を仰いだ。
太陽は高く、雲はゆっくりと流れている。
今日もまた、実りへの道は続いている。
それだけで、世界は十分に満たされていた。



