川は、いつも同じ場所を流れているようで、
一瞬として同じ姿を留めてはいなかった。
彼女は、川辺に立ち、しばらくその流れを眺めていた。
水面に映る空は淡く、雲はゆっくりと形を変えていく。
どこかで鳥が鳴き、風が水を撫でる。
胸の奥に、言葉にならない重さがあった。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、長い時間をかけて溜まってしまった澱のようなもの。
「流してもいいのだろうか」
そう思った瞬間、
川の音が、ほんの少し近くなった気がした。
水は、何も問わない。
正しさも、理由も、説明も求めない。
ただ、受け取り、流し、遠くへ運ぶ。
彼女は、靴を脱ぎ、そっと水に足を浸した。
冷たさは一瞬で、すぐに身体の内側へ溶けていく。
その感触に、呼吸が自然と深くなった。
「とけてゆく」
どこからともなく、そんな言葉が浮かぶ。
痛みも、憂いも、名前を与えられなかった感情も。
それらは、水に触れた途端、輪郭を失っていった。
川の向こうに、青い気配が立ちのぼる。
姿は見えない。
けれど、確かにそこに“在る”と感じられた。
瀬織津姫――
水の神。
祓いの神。
すべてを裁くのではなく、すべてを水に還す存在。
彼女は、川に向かって何も祈らなかった。
願いを託すことも、救いを乞うこともしなかった。
ただ、胸の奥を開いた。
すると、水は静かに応えた。
重たかったものは、流れの中へ溶け、
軽かったものだけが、身体に残る。
それは「癒された」という感覚ではなかった。
むしろ、本来の重さに戻ったという感覚に近かった。
水面に、光が揺れる。
風が吹き、川はまた先へ進んでいく。
彼女は、ゆっくりと足を引き上げ、岸に立った。
世界は何も変わっていない。
問題も、過去も、未来も、そのままだ。
けれど、心の奥で、青い風が静かに吹いていた。
「また、流しに来ればいい」
そう告げられた気がして、彼女は微笑んだ。
瀬織津姫は、どこかに留まる神ではない。
流れそのものとして在り、
人が重たくなりすぎたとき、そっと思い出される。
川は、今日も変わらず流れている。
そして、いつでも――
水は、還る場所を拒まない。



