八瀬童子と天皇の関係
八瀬童子と天皇の関係
八瀬童子と天皇との関係は古くから続いています。
1336年に足利尊氏から逃れ京を脱出した後醍醐天皇を比叡山に逃がすため、八瀬の村人が天皇の輿を担ぎ、弓矢を手に取って行列を守ったと言われています。その働きにより、労役や土地に対する税金を免除するという特権が与えられました。これについては、後醍醐天皇の綸旨(りんじ)という文書に残されています。
その後、八瀬童子は、代々の天皇や上皇の行幸(外出)や葬送の際に輿を担ぐ「駕輿丁(かよちょう)」の役に就くようになりました。
一時はその任が途絶える期間もありましたが、明治天皇・大正天皇の大喪においては、葱華輦(そうかれん)という天皇の棺を納めた輿を担ぎ参列しました。昭和天皇の大喪では、警備上の理由から八瀬童子が輿を担ぐことはできませんでしたが、代表者数名が付き添う、という形で参列しました。
八瀬童子が重要な役割を果たす「葵祭」
八瀬童子と葵祭
八瀬童子は、葵祭になくてはならない存在です。
葵祭は、天皇から使者が遣わされる勅祭(ちょくさい)です。古くから天皇との関わりの深い八瀬童子は、当時をしのばせる駕輿丁の姿で参加し、行列の運行秩序を担っています。
葵祭には、小学6年生になると稚児(ちご:子ども)役で、大人になると列奉行や検非違使(けんびいし:律令制で検察の役割を担った役職)の馬、牛車の手綱を握るなど、行列では多くの八瀬童子たちが役に就いていました。
ポイント
- 八瀬童子は駕輿丁という役割に就き、明治・大正天皇の大喪では輿を担ぐ役割を担っていました。
- 八瀬童子は葵祭に欠かせない存在で、多くの八瀬童子たちによって行列の運行秩序が守られています。
八瀬童子についてまとめ
八瀬童子についてまとめ
八瀬童子は、天皇を助けたことから駕輿丁を任せられるようになりました。自らを鬼の子孫と呼び、600年以上前から天皇との強い結びつきを持ち、現在も葵祭を支え続けています。
八瀬童子たちからは、自分たちの歴史に誇りを持っていることが感じられます。私たちが今の世で歴史の一端を知ることができるのは、伝統を守り続けるこのような人々の努力があるからなのです。


