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「一条戻り橋」とは?異界につながる橋の歴史・由来│伝説3選も紹介!

目次

一条戻り橋とは?

一条戻り橋とは、京都市の一条通を流れる堀川に架けられた橋の名称で、古くからあの世とこの世をつなぐ橋として有名な橋です。長さは8mほどの短い橋で、平安時代から何度も作り直されていますが、現在でも当時のままの位置に架かっています。単に「戻り橋」と呼ばれることもあります。

今なお「怖い橋」としての認識が浸透しているほど、一条戻り橋には数々の伝説・逸話が残されています。そこで今回は一条戻り橋の歴史や、そこに眠る伝説について詳しくご紹介します。

一条戻り橋の歴史

一条戻り橋の歴史は平安京とともに始まります。

一条戻り橋は平安京造営に伴って794年に掛けられ、もとは「土御門橋(つちみかどばし)」と呼ばれていた橋です。その場所は、当時の都の北東(鬼門)にあたる方角で、都の端の出入り口でした。死者はこの橋を渡って墓地まで運ばれたといいます。そのため、この橋はあの世とこの世をつなぐ橋とも言われていました。

一条戻り橋が「戻橋路」の名で文献に初めて登場したのは藤原行成が記した日記『権記(ごんき)』で、998年のことです。

その後何度か修復されており、現在の橋は1995年(平成7年)に架け直されたものとなります。

「橋」はあの世とこの世の境界

そもそも橋は、川や井戸と同じように「あの世とこの世の境界」と考えられてきた場所になります。中世の人々は橋を渡った向こう側は「異界」で、魑魅魍魎が跋扈(ばっこ)していると信じていたのです。

能の舞台において「橋掛り(はしがかり)」と呼ばれる長い廊下があります。この橋掛かりを通って、シテ(主人公)は揚幕から本舞台へと現れ、そして消えていきます。すなわち、能の世界において橋掛りは亡霊の通り道となっているのです。

また、かつて一条通りは二つの川の合流地点で、水の流れがぶつかり合うことで生まれる泡(あぶく)から異界のものが出てくると考えられていました。

死者も蘇る?一条戻り橋の名前の由来

都名所図解「一条戻橋」:画像は国際日本文化研究センター

もとは「土御門橋」と呼ばれていた橋が、なぜ「一条戻り橋」と呼ばれるようになったのでしょうか?

浄蔵の父が棺から息を吹き返した場所!

13世紀頃に成立したとされる説話集・『撰集抄』(せんじゅうしょう)に次のような話が記されています。

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平安時代、浄蔵(じょうぞう)という修験道を極めた者がいました。菅原道真の怨霊を鎮めたり、東山法観寺の八坂の塔が歪んでいたのを直したりしたことでも有名な僧です。

延喜18(918)年、紀州熊野で修行していた浄蔵のもとへ、漢学者であった父(三善清行(みよしの きよゆき)が危篤だという知らせが届きます。知らせを受けた浄蔵は「なんということだ。父の死に目に逢えないなど、最大の親不孝だ」と、熊野からすぐに京に向かいます。

しかし、この橋にたどり着いたところで父の葬列に出会うことになります。

父の臨終に間に合わなかった事を悟った浄蔵は、嘆き、棺に取りすがって、父に一目会いたいという一心で祈りました。すると突然雷鳴が鳴り響き、父が息を吹き返しました。息を吹き返したのは一時的でしたが、父と子は再会を果たすことが出来たのです。
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それ以来、あの世からこの世へ戻ったという場所として土御門橋は「一条戻り橋」という名前に名付け変えられました。

安倍晴明の父も生き返った?!

一樹戻り橋は、ときの陰陽師・安倍晴明とも縁の深い場所です。

江戸時代の「古浄瑠璃正本」には、「晴明のライバル・芦屋道満が、晴明の父である安倍保名を一条戻り橋で惨殺するが、晴明は父を祈祷によって蘇生させ、道満を打ち滅ぼす」と記されています。

一条戻り橋の名前の由来である浄蔵の父の蘇生も彷彿とさせますが、同じ蘇生でもこちらは歌舞伎の題材にもなった逸話です。

『源氏物語』の「車争い」は一条戻り橋付近

平安時代の紫式部の名作『源氏物語』の第9帖「葵」巻には、「車争い」と呼ばれる有名な話がおさめられています。賀茂祭のとき、一条通りで牛車争いが繰り広げられるのです。牛車の位置を巡って争ったのは、光源氏の正妻・葵の上と恋人・六条御息所(みやすどころ)です。

葵の上が権力をたてに御息所の牛車を後方に追いやってしまいます。御息所は、葵の上の妊娠に加え車争いで恥をかいたことで、生霊となって葵の上を呪い殺してしまうのです。

あの世とこの世の境である一条戻り橋付近での争いを機に生霊と化すということで、なんとも不思議な縁を感じてしまう話です。
 

一条戻り橋と橋占

『源平盛衰記』巻十によれば平安時代末期、陰陽師は橋の上で毎夜「橋占(はしうら)」を行ったとされます。

橋占とは、黄昏時に橋のたもとに立って行きかう人々の会話のなかから「神のお告げ」をうける占いです。橋ではなく、交差した道に立ってお告げをうける占いを辻占といいますが、その橋バージョンと捉えてよいでしょう。偶然性の中に必然性を見出す朴術の一つであり、夕方に行うことから「夕占(ゆうけ)」ともいいます。

辻や橋という場所、そして逢魔が時と呼ばれる時刻には妖怪や神霊など異界のものが行きかうと考えられていました。そのため、辻占・橋占で神からのご神託を授かることができるのです。

一条戻り橋は、橋占のスポットとして名高いスポットでした。

「一条戻り橋」にまつわる伝説3選

一条戻り橋は様々な伝説が残っているミステリースポットです。どのような伝説が語り継がれているのかみていきましょう。

伝説①安倍晴明の式神

安倍晴明は十二天将と呼ばれる式神を使役していましたが、晴明の妻は式神の顔を怖がります。そのため晴明は術を使わない間は式神を屋敷近くの一条戻り橋の下に隠しておき、必要となったその時その時に召喚していたといいます。

また、晴明には「見鬼(けんき)」という、この世のものならざるものを見る才があったといわれています。この才能を活かして一条戻り橋で辻占も行っていたのかもしれません。

一条戻り橋近くの晴明の屋敷跡は、現在の「晴明神社」です。晴明神社には一条戻り橋のミニチュアがありますが、これは以前実際に戻り橋で使われていた欄干の柱を使用しています。その橋のたもとには、晴明の使役していた式神の像が建っています。
 

晴明神社
所在地〒602-8222 京都府京都市上京区晴明町 806堀川通
交通JR京都駅より市バス9系統西賀茂車庫前行20分、一条戻り橋より徒歩すぐ

伝説②橋占での童子たちによるお告げ

『源平盛衰記』の記述に、高倉天皇の中宮・建礼門院(けんれんもんいん)が安徳天皇を出産する際、中々出産に至らない事を気にした母の二位殿(にいどの)が、一条戻り橋で橋占を行ったとあります。

この時、12人の童子が西から東へと手を打ち鳴らし、「榻(しじ)は何榻、国王榻、八重の塩路の波の寄榻」と歌いながら橋を渡ります。この歌は、生まれくる皇子の将来を予言していました。

そして、橋で歌った12人の童子は、安倍の晴明が一条戻り橋に閉じこめていた式神たちだったといわれています。

伝説③茨木童子と渡辺綱の戦い

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渡辺綱は源頼光の使者として一条大宮に遣わされ、夜、一条戻り橋を渡るのですが、橋の東の橋詰で一人の美しい女に出会います。そして女は、綱に「五条まで帰りたいのですが、この雨で困っております」と言います。綱は女を馬に乗せて、五条まで送ることにしました。

ところが橋を渡る際に、水鏡に写る女は鬼女の姿であることに気づきました。ハッとして振り返ると女はたちまち恐ろしい茨木童子という鬼の姿になり、綱の首を掴んで連れて行こうしたのです。綱は刀で、鬼の腕を切り落としました。すると鬼は「7日の間にその腕を取り返しにいくからな」と言いながら逃げて行ったといいます。

綱は、安倍晴明に相談したところ「必ず鬼が腕を取り返しに戻って来るから、七日間家に閉じこもり、誰一人家の中に入れないように」と言われます。そして、綱はその通り鬼の腕を箱にしまい、家で謹慎するのですが、何事も無く7日目の夜までこぎつけました。

しかし、7日の夜に年老いた義母が大阪から訪ねてきました。綱は事情を話しますが、せっかく大阪からやってきた義母を突き返すこともできず、家に入れてしまいます。

綱の武勇を聞いた義母は「その鬼の腕を見せておくれ」と綱に頼みます。さすがに綱は拒むのですが、義母の熱意に「ちょっとだけ」と見せてしまうのです。しかし、養母の正体は鬼であり、綱の切り落とした片腕を取り戻し、天高く舞い上がり、暗闇に飛んで逃げ去ってしまったといいます。
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天照大御神

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