一条戻り橋であった残虐な出来事
戦国時代になると、この橋で最も残酷な刑とされた「鋸引き(のこぎりびき)」が行われていました。
「鋸引き」とは、復讐刑としての意味合いも強く、罪人を地中に埋めて首だけ出し、身動きできないようにし、被害者親族や通行人などが鋸で少しずつ罪人の首を切り、ゆっくりと死なせるという当時の極刑です。一人あたり1回か2回だけと鋸をひく回数は決められていました。首を切る鋸はあえて切れ味の悪い竹で作ったものだったといいます。
受刑者は、いつ鋸をひかれるのかという恐怖におびえながら、じわじわと苦しみを与えられて殺されていったといいます。鋸は切れ味が悪いものだったため、絶命までには相当時間がかかったのです。虫が首の傷を蝕むことも多く、多くの者は処刑の途中で気が狂ったと言われています。
安土桃山時代には罪人のさらし場所にも
さらに、一条戻り橋のたもとは罪人のさらし場所にもなりました。天正19(1597)年に豊臣秀吉の怒りを買い、切腹を命じられた千利休の首がさらされたのも、一条戻り橋だったのです。
そして豊臣秀吉の時代には、24名のキリシタンの左耳を削ぐ「耳そぎの刑」もこの地で行われたと言います。
江戸時代に「万年橋」と名を変えるものの…
徳川和子(徳川秀忠の五女、第108代天皇・後水尾天皇の皇后)の入内のとき、幕府は戻り橋の名を忌避して「万年橋」と改名しましたが、定着はしませんでした。
今も残る一条戻り橋の伝説
「一条戻り橋」には、現代にも名残ある言い伝えがいくつかあります。
婚礼前は「出戻り」を避けて通らない
婚約した人、は「出戻ってしまう」ことを避けて、一条戻り橋を通りません。縁談に恵まれている人も同様に、この橋を忌避します。もし通ってしまうと、破談になったり離婚に至ったりするとされています。
さらに、新居に向かう、花嫁の荷物を乗せた引っ越し業者も一条戻り橋を通り道から外しているそうです。
徳川和子が入内の際にわざわざ戻り橋→万年橋に名前を変更したのも、この「出戻り」と掛詞になっているのを嫌ったからでしょう。
遠回りをしてでも、婚礼前の人や婚礼に関わる人・業者は一条戻り橋を避けて目的地までいくことを重要視します。
霊柩車もこの橋を避ける
霊故人を安らかにあの世へ送りたいという気持ちを込めて、この橋を通らないようにしています。
旅人はこの橋を「敢えて通る」
旅人は橋を渡ると必ず戻って来られると、橋を渡ってから旅立つ人もいるといいます。また、戦時中に、出征する前の兵士がわざとこの橋を渡り、無事に戦地から戻ってこられるようにと願ったといわれています。
「一条戻り橋」のアクセス情報
| 一条戻り橋 | |
| 所在地 | 〒602-8232 京都府京都市上京区1条通19丁目 |
| アクセス | ・JR 京都駅より B1乗り場から:9号系統に乗り「一条戻橋・晴明神社前」下車 徒歩約2分・阪急 烏丸駅、地下鉄 四条駅より 12番「一条戻橋・晴明神社前」下車 徒歩約2分・京阪 三条駅より 1259番「堀川今出川」下車 徒歩約2分 ・晴明神社より 約100m 徒歩1分 |
一条戻り橋は、京都市上京区の、一条通の堀川に架けられています。平安の時代から、現在もなお同じ場所に存在しているのです。堀川は小さな疎水のような川で橋の下をゆっくり散策することもできます。一条戻り橋自体は短く小さいのですが、下へ降りて休めるようにもなっています。
そして、この一条戻橋から堀川通りを隔てて、北へ100メートルのところに、安倍晴明が祀られた「晴明神社」があります。もとは安倍晴明の邸跡だった場所で、京都を代表するパワースポットとしても知られている場所です。
まとめ
「一条戻り橋」は長い歴史といくつもの伝説が伝わる、不思議な橋です。「あの世とこの世の境界」といわれ、長い歴史の中で何度か姿を変えつつも、今もなお、平安の時代と同じ場所に存在しています。
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